1998

公開した後に書き足すことが多々あります。

アニメ『平家物語』感想 8話

 平家物語だから仕方ないのだが、思ったよりびわの物語が少ないな。越後までの道のりをもう少し描いても良いのではないか。『アルプスの少女ハイジ』や『赤毛のアン』のような孤児の物語から『母をたずねて三千里』のような母を探す物語へ転換した回だった。もっとびわの歩いたり、走ったりする映像、その時の足もとの映像がほしいと思ってしまう。成長しない人物(≒不老不死)は、宙に浮いているような気がしてしまうので、この人物は生きているんだ!!!という感覚がもっとほしい。この回の最後でも、びわは結局何もできない人物として描かれている。

 白い髪の人がうたっている時のBGM?がすごかったな。維盛や資盛は髭が生えていた。時間の流れ方が一定しているわけではないから、時間がどれぐらい流れたのかよく分からない。このあたりもう少し上手く描く方法はないのかな。と思いつつ、かなりの時間が流れているだろうから、毎回そういう時間が流れていることを示す映像を入れていたら、くどいような気もするが。

 維盛はほんとうによく泣く。維盛のような人物は弱くないし、「泣き虫」でもないと思うのだが、鑑賞者にどうやって受容されるのだろうか。涙を流す男性というのが、弱さや泣き虫などとされずに描くのはどういう方法があるのか。弱くても、泣き虫でも良いことを伝える方法って確立されているのかな。物語中の誰かが実際にそういう発言をすることなく、肯定する表現がどんな感じになされるのか興味あるなあ。表象だけでなく、社会の問題でもある気はするが。

 必要なのは資盛のような人物の涙ではないかなと思ったりもする。資盛も戦を好む人物ではないのだなあ。そして、好きな女性との関係を大事にするらしい。重盛も維盛も資盛も、それなりに奥行きのある人物のような気がするのだが、なんか徳子が表面的に感じてしまうのだよなあ。なんでだろ。

『アルプスの少女ハイジ』感想 26-30話

26話

 今回は山の映像が全くなかったな。冷たい水を持ってくることだけが大事で、距離や時間の概念はハイジにとって問題外なのだな。どこで水を汲んでも飲める水なのかな?1話の間で10日も経ったらしい。

 

27話

 今回も山は出てこず。白パンを失ったことはやはり大きかったか。帰る時にはクララが買ってくれると言っているし、カビが生えてしまうから、集めても仕方ないと思っているかもしれないな。クララのおばあさまもかなり癖のある人物だな。クマの着ぐるみ?毛皮?を着て登場するなんて、しかもサーカスから借りてきたもの。ロッテンマイヤーさんもお皿叩き始めたら面白かったのになあ。はじけちゃえば良いのに。

 ハイジは寝るまで誰かに傍にいてもらったことってあったのかなあ。読み聞かせをしてもらえることが絶対的な幸せではないだろうけど、あたたかい映像だった。

 

28話

 やはり今回もアルムの山はない。フランクフルトの生活に慣れて山のことを考えることがなくなったのか、山のことを思い出すことができないほど締め付けられた生活なのか。絵の中の燃える山やおじいさんに似た人物(キリスト?)、ヤギを見ると思い出して、悲しくなるってことは、やっぱり具体的な事物が必要なのかな。ここでも映像は入らないんだよなあ。白パン騒動以降、変化があったかな。

 喜びは高く舞い上がるもので表現される。

 

29話

 クララに呼ばれたら傍に引き寄せられ、クララを置いて遊ぶことはできず、車椅子を押すのはハイジで、ずっと傍にいると誓い合う様を見ていると、クララといることが息苦しくなりそう……と思ってしまう。クララ、子どもの罪悪感を利用して見えない糸で子どもを縛り付ける親みたいに感じる……傍にいる子が心ここにあらずという感じで毎日山のことを考えていたら、それもそれで嫌だろうが。

 ロッテンマイヤーさんをもう少し魅力的に描けなかったかなあ。あまりにも頑固すぎる気が。木の上から茶化していた少年たちを一緒に蝶々採りに参加させてしまうハイジはすごいな。

 

30話

 さすがに蝶々でもあんなにいたら怖いよ。ハイジは基本的に愛される存在だよな。一回一緒に遊んだだけの二人の少年たちもハイジのためにたくさんの蝶々をつかまえてくるんだもん。ロッテンマイヤーさんぐらいだよ、ハイジを変な子だと思ってるの。水面に反射した光の演出方法おもしろかった。今だったら撮影のエフェクトで簡単にできちゃうんだろうけど、当時は工夫しただろうな。

 ハイジはおじいさんから裁縫を習っていたのか。

アニメ『平家物語』感想 7話

 OP、びわの足首が、きちんと走れそうで、力を感じるのが良いな。

★★★★★★★ 

 うーん、なんだかちょっと失速してきたなあ。

 徳子は結局「良き女性」という感じで、もう少し傍若無人な人物でも良いのではないか。上皇が亡くなる直前に父・清盛に対して自分の意見を貫き通しているとはいえ(ここはカッコいい、徳子を正面から捉えたショットを持続させてほしかったかも)、上皇に対する忠義を述べて、「望まぬ運命の中でも幸せがある」という主旨の発言があり、法皇後宮に入った若い女性を世話するのも徳子で、上皇のただ一度の言葉だけで満足して、とあまりおもしろくない人物だななんて思ってしまうんだな、私は。一人の男性を思う一途さを持ち、父に意見を述べるだけの主体性はあるが、自分の欲望を発露させる瞬間はあまりに少なく(苦しみだけでなく欲望も吐露してほしかったな、それを清盛との対話で否定しているわけだが)、上皇若い女性の世話役になってしまう感じが、シスターフッドの名を借りたただの世話役でしかない気がして、うーーーん。

 でも、清盛たちを納得させるために忠義を持ち出しただけで、もう男性たちの所有物にはならないという強い意志は感じるし、後宮に入った若い女性の元に訪れるのは、彼女がこれまで生きてきて感じたことゆえの判断だろうとも思うし、悪くはないんだよな。どこまでがもともとの平家物語での徳子で、どこからがこのアニメでの徳子なのか分からないから判断が難しいのかなあ。今私が感じている徳子は「全方位に配慮した女性」という感じなのだよなあ。

 

★★★★★★★

 資盛がびわや維盛(特に、利用されてしまうだろうびわ)を思って、びわに出ていけと言ったのは分かる。分かるが、あのぐらいの子どもがどうやって生きてゆくのだ。成長しない、目の色が違う子どもは排除されていくだろうし、重盛の一家(平家)ぐらいではないかびわを受け入れるのは。琵琶を弾くのかな。

 資盛がびわを傷つけるひどい発言をして、でもびわは資盛の真意を理解して、という流れもいやだった。コミュニケーションってものをもっと大事にしてほしい。言葉は悪くても、真意が伝われば良い、みたいな男性像も考えも嫌だなあ。真意は分かっていたって、傷つくものは傷つくだろう。(そういえば、びわがあの目を持つことによって受ける不快な、傷つくような出来事全般が物語にない気がする。あの目とびわがどう向き合うかを描くのも大事な気がするが。「何ができる」と考えているところは、向き合う過程だけど、もっと葛藤が全面に出ても良い気がする。)

 

★★★★★★★

 今回は、びわが亡者の見える目で見ることが多かったな。画面も良い瞬間はあった(徳子が清盛に意見するシーンの正面からのショットとか、水面に映るびわと水面に映らない重盛の対比とか、重盛の息子とびわの最後のシーンの一人ずつ去ってゆくところとか、旅立ってゆくびわを橋の上においたこととか)。けど、物足りない気がするのはなぜだろうなあ。

 

 

『アルプスの少女ハイジ』感想 21-25話

21話

 事あるごとに山の情景が挿入されている。ヨーゼフのあくび、帽子をもらった時のこと、もみの木。馬車の音をもみの木が鳴っていると勘違いして、外に飛び出してゆくハイジを見てると可哀想になるな。女性ばかりが意地悪に描かれている気がするが、ロッテンマイヤーさんはキャラ好き。

 明るい音楽が流れ、クララの小鳥が空へと飛んでいったところから、ふいに扉を閉める音が聞こえると共に音楽がぴたりと止み、暗く長い階段の場面への転換良いな。対比。

 

22話

 ハイジ一人でおじいさんやペーター、ヨーゼフを演じる→クララも加わる→嬉しくなったハイジはクララの周りを走る→走っている間にだんだん山の景色へ→おじいさんやペーターがいる景色まで見える→駆けていこうとするが、途中で現実に戻ってくる、という流れ面白かったな。走っているときに山の景色になるのは二度目だし、クララとはおじいさんたちのマネをする=演じることによって、さらに仲を深めているのは『偶然と想像』の第三話を思わせるし、という感じで興味深かった。そういえば『赤毛のアン』でもアンとダイアナはごっこ遊びしていたな。演じるってごっこ遊びに近いのか。

 教会まで連れてきてくれた男の子、野沢雅子じゃない?と思ったら本当にそうだった。

 

23話

 ロッテンマイヤーさんが面白過ぎる回。この回のロッテンマイヤーさんで、当分笑えそう。動物をそんなに怖がるなんて、過去に何があったのだろう。教会からの有り難い頂き物ですからね、って良いふり(笑)ハイジでも白い猫なんだなあ。

 

24話

 嵐でも山を思い出し、ミーちゃんと一緒に寝れば、山で一緒に走り回っていることを夢見る。フランクフルトに来てから毎回山の映像がさまざまな形で挿入されている気がする。帰りたいと屋敷を飛び出す行為だけじゃなく、毎回山の映像を入れることによって、ハイジがどれだけ山が恋しいのかを表現していて良い。くどいぐらいの積み重ね、くり返し。山の映像の方が、見る者の楽しいというのはありそうだが。

 そういえば、クララの部屋は二階(以上)にあるんだなあ。屋敷の玄関にも小さな階段あるし。外に出ないことが伝わるなあ。この時代、簡易的なエレベーターみたいなものあるのだろうか。出かける時は運んでもらうのかな。

 

25話

 ハイジも空を飛んでいました……!!!大角のだんなに見える文字にインクをこぼしたことでさらに似て、それに乗って空を飛んでいた。ペーターのおばあさんに白パンを持っていく夢を見て、アルファベットの練習をしている時にはだんだんとヤギや大角のだんなに見えてくるハイジ。ずーっと山のことを考えているのだなあ。

 ハイジにとってパンは山へ帰る希望を具体的にしたもので、山とハイジを繋ぐ大事なものだったのだろうなと。そりゃ泣くわな。思ったよりもため込んでいたな。どれぐらいフランクフルトで過ごしているんだろう。

 自分がもうハイジのような年齢じゃないからロッテンマイヤーさんの言動とリアクションの大きさに笑えるが、子どものころだったらなんてひどい奴だ、と思ってただろうな。無意識に何杯も砂糖入れてるロッテンマイヤーさん面白い。

 

アニメ『平家物語』感想 6話

 うーん、前回までに比べると画面が凡庸に思えたが、どうだろうか。慣れてきたからかもしれないが。

 最後の、維盛とびわの対話シーン、維盛とびわの切り返しショットは興味深かった。びわの顔が半分だけ画面内にあったのだが、その半分というのが亡者を見ることができる目がある方の半分だった。維盛の死が近いのか、それとも強くあらねばと刀を振る回し、錯乱しているような維盛は亡者のようであるのか。

 徳子が世話役を担っていたし、びわの弾く音楽は清盛の演説のBGMとなっていたし、びわは白い猫に出会い、可愛がりそうな感じがあるし、うーーん、どう出るかな。

 なんというか、これは『かぐや姫の物語』でも感じたことなのだが、若い綺麗な娘の苦悩を描いても、『かぐや姫の物語』なら媼や相模、『平家物語』なら清盛の妻だろう人物、重盛の妻だろう人物の苦しみなどは描かれない。徳子のような、美しく、賢く、気遣いに長け、という女性の苦しみにしか興味がないような感じはあるかなあ。世話をしている姿を描くにしても、もう少し、そこに複雑な思いが見えたりすると良いのだが。

 びわと動物の組み合わせに警戒してしまうのは、ディズニープリンセスを思わせるからなんだよな。もちろんエルサやムーランのような存在があるにしても、動物をかわいがる姿っていうのは容易に母性愛的なものへと回収されてしまうからなあ。びわは子ども(徳子の子ども)に対しても「かわいい」と言っていたし。こういう仕草だけで決まるものではないが、警戒してしまう。あと、びわは男の格好をしているが、それでも徳子と資盛に「女の子」だと分かると言われているし、資盛はその時にみんな知っているというようなことも言っていたので、どうだろうな。びわという存在が排除されていないことは重要だとは思うが。

 びわと資盛、ハイジとヨーゼフみたい。ペーターじゃなくてヨーゼフなんだよな。この二人の関係はこれから楽しみ。

 清盛の悪夢?は下品な感じで、低級のホラーみたいで、清盛らしい気がした。想像力が欠如しており、呪われ方が安直って感じ(笑)

アニメ『平家物語』感想 5話

 今回は展開が目まぐるしく、無知の私にとって、人間関係と権力関係が分からなくなった。でも面白いから、すごい。

 前回から、びわが弾く琵琶と白い髪の人の琵琶とうたが混じり始めた。混じり始めた、というのは正しくないかな。びわの琵琶に続いて白い髪の琵琶とうたになっている。

 みなを許す存在である徳子は、母性愛というか、すべてを包む母的存在のようでフェミニズムジェンダー論で批判されるよくある女性像ではあるが、彼女が「許すしかない」状況に置かれ、その選択をしなければ徳子が自分自身をも許せなくなるのではないかと思え、またその許す行為に諦念が混じっているように感じられた。母性的存在へと追い込まれる過程や苦しみが見えた気がして良い。

 しかし、徳子やびわを許す存在はいるのか。許す/許されないの前に徳子とびわは何かをした/できたのだろうか。

 維盛の涙がすばらしいなあ。維盛と戦の場面の演出もおもしろかった。しかし、戦で尻込みしない強さを持つ人物と、重盛や維盛のような戦うことを恐れる人物の造形に偏りを感じるな。後者の方が線が細い傾向にあるように思う。マッチョな感じの人物がマッチョな男性性を備えていないところを見てみたいな。まあ、よく使われるような(教科書とかで)絵を参考にしているだろうから、仕方ないのかもしれないが。

 びわだけが重盛の能力を引き継ぐと思ったら、維盛にも「何か」を見る能力があるらしい。びわだけが背負うことにはまだならなそう。琵琶法師という人物になぜ見る、それも人が見えないものまで見える能力を与えたのだろう。

 瞳をどんどんズームアップしていき、ディゾルブして別の景色へと変わっていくところとか面白かったな。今回一番多く描かれた足は清盛の足だったかな。維盛と戦のシーンだけもう一回見直そうかな。死の象徴としてのカラスだったかな?カラスって不穏だもんなあ。となると、ED(OPにもいたかな?)で飛んでいる鳥の種類と何を表しているのか気になってくるな。今回の絵コンテ・演出、「モコちゃん」って書かれてた。そういう名前で活動することもあるんだね。良いな。

 

★★★★★★★

 OPが進むごとに興味深いものになっていく。OPに「あの花が咲いたのは/そこに種が落ちたからで/いつかまた枯れた後で種になって続いてく」とあるが、このアニメの中で落ちるのが印象的だったものって、花と涙なんだよなと。重盛や維盛の涙も循環するのかな。循環するというより涙=苦しみが受け継がれてほしい。女性はまだ涙を流してない気がしていた。どうだったかな。滞る涙。凝る涙。(萩尾望都の「イグアナの娘」に「母の涙が凝っている」というフレーズがあった気がする。)古川訳の『平家物語』を借りてしまったのだが、読めるかな……… 

 

 

 

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『アルプスの少女ハイジ』感想 16-20話

16話 

 OP、16回見ても、ペーターの笑顔が可愛くてしかたがない。

 落とし穴を見破るヨーゼフは賢いし、無意識に落とし穴の前で止まるペーターもペーターらしいし、忘れて自分で落ちるハイジもハイジらしい。3年の月日はどこへやら。大きさも変わらないし、おじいさんもヨーゼフも老いたところを見せない!いったいいくつなのだろう。ペーターに落とし穴に落ちてもらおうと待っているおじいさんとハイジの後ろで手を組んでいる姿が同じところに、年月を感じるくらい。

 ヤギやヨーゼフと一緒に暮らしていれば幸せなんだ、分かるかい?と聞かれて、ううん分からないわ、と答えるハイジは素直だな。手紙を読めるのだから、おじいさんは学校に行ったのだろうと思っていたが、やっぱり通ってたんだな。手紙を焼いてしまうおじいさんは外界とのコミュニケーションを絶つ人物で、村(町じゃなく村だったのか)の人々と円滑なコミュニケーションを取るつもりがないらしい。おじいさんがよくてもハイジはどうだろうな。人々の間を飛び回る子どものようにも思えるが。

 

17話

 牧師さんとはコミュニケーションを取ることができるんだね。おじいさんも。おじいさんと牧師さんが話している時、おじいさんの後ろの窓を開け放ち、その窓の向こうにハイジとヨーゼフが遊んでいる様子が見えるショット良いな。自然の中で遊んでいるのだから解放感があると思いきや、フレーム内に閉じ込められている感じ。牧師さんも同じショット内にいるのだから、牧師さんの視点ショットではないが、彼にとってはハイジが囲われているように思えることを示しているような。

 デーテの服の裾が長くて箒になってしまう描写も上手いなと思った。

 ついに次はフランクフルトか。つらいだろうな。

 

18話

 おじいさんが考える幸せもデーテが考えるおとぎ話のような幸せも、どっちもよく分かってしまう辛さよ。ペーターがやってきた時のおじいさんの第一声の弱さがすごかったな。おじいさんもペーターのおばあさんも高齢だろうから、あんまりショックを与えると死んでしまうよ………生きているうちに帰ってくるのだ。ペーターはもっと強がるかと思ってた。泣きながら走り、山でハイジの名前を叫ぶとは。

 帽子を被ったり、脱いだり、いじったりでハイジの気持ちを表してたな。

 冒頭の和楽器の音楽がなんだか『平家物語』みたいだったな。

 

19話 

 フランクフルト編長そうだな。ロッテンマイヤーさんとハイジのやり取りは面白いのだが、おじいさんたちのことを考えると胸が痛むよ。汽車で流れたハイジの涙を知ったらおじいさんは嬉しさありつつ、ものすごく怒るだろうな。

 

20話

 走りながら山に戻る幻想を見るところは良かったな。壁にぶつかって、現実に戻った時の間も良かった。クララにあんなこと言われたら戻れないよなあ。でもわたしハイジだわっていう感じのところも良い。