1998

公開した後に書き足すことが多々あります。

『アルプスの少女ハイジ』感想 47-52話

47話 こんにちわおばあさま

 えーロッテンマイヤーさん帰っちゃうのか。クララと離ればなれになると分かって泣いている姿を見ると、クララのことを大切にしているのが分かるが、不器用で頑固なのだな。ハイジやクララにとってはいない方が良いのかも。おじいさんが、子どものことを信頼していてるのがとても伝わってくる。子どもだからって見くびったりしない。クララのおばあさまのことを思って、ハイジがうれしいのに悲しくなるのって、やっぱりフランクフルトでの生活がかなり辛いものだったことを物語っているな。

 

48話 小さな希望

 次回予告が随分短かった。間に合わなかったのかな。

 クララが立つことをとても良いことだと表現されてしまうと、歩けなくても幸せな生活を送れたら良いのになあと思ってしまう。健常者だけが幸せに生きれる社会は嫌だなあと。と同時に、ハイジが駆けまわる姿を見ていたら、やはり立ちたいだろうし、歩きたいだろうな、とも思う。

 

49話 ひとつの誓い

 クララが立つことを期待して、クララに何度もそのことを言うおばあさんとそれが重くなるクララの描き方が良いな。夜、ベッドに入っているシーンで、クララの憂いの表現の仕方がけっこう良かった気が。ショットの長さとか、瞬きとか。

 そういえばハイジってずっと短髪だよな。フランクフルトでロッテンマイヤーさんにのばせと言われてもおかしくないような。村の少女たちも髪長かったし。

 

50話 立ってごらん

 朝ベッドからクララが落ちたシーン、やってきたおじいさんはハイジとクララの間に立っているかと思ったら、クララの隣に座ったので、おどろいた。中立な立場で話をするかと思っていたんだけど、クララの隣に座ったことで、彼女に寄り添うことを示していたような。ハイジもペーターもおばあさんもたしかにせっかち。でも、おじいさんは出来過ぎで怖いくらい。みんなの期待が重いときあるよねえ。ハイジって、私が思っていたより、「良い子」ではないな。その方が良い。前回くらいから、クララの首の振り方がかなり丁寧に描かれているような。

 また野沢雅子さんが登場した。

 

51話 クララが歩いた

 クララは、地面に触れたことがなく、山に来て初めて座ったり、寝転んだりして、地面に触れた。でもこれはクララ自身の意志と誰かの手を借りたものだった。歩くことができた後の転倒は、自分の意志とは無関係なものによって初めて地面に触れた瞬間だったのだなと。この過程が面白いな。(赤ん坊の時はどうだったのか分からないが)

 原作ではペーターが嫉妬で車いすを壊すらしいが、アニメではクララが壊してしまう。映像的には、クララが壊す方が良いだろうな。しかも、歩くぞという決意によって壊すのではなく、車いすに乗っている方が自由だったと思い、取りに行こうとして、壊してしまう。

 車いすが壊れることは、クララの心が砕けること、頼る場所を失くすこと、過去の自分や生活との不意の決別、隠したはずの甘えが露顕して砕けること、といろんなことがこの場面に集約されている気がする。

 次回は最終回だ。

 

52話 また会う日まで

 おもしろかった~~物語の最後、幻想を使うのも高畑勲だな。手をつないで走っている三人良いな~ロッテンマイヤーさんの驚くところも見たかったな。

『アルプスの少女ハイジ』感想 41-46話

随時更新。

 

41話 お医者さまの約束

 木のバケツが転がったところすごいな。ハイジにも見ている者にも山の斜面がどれほど危険かを分からせてしまう手腕。ハイジの言う通り、クララは普段二階に住んでいるから、車椅子で不自由なく動き回っているわけじゃないんだよなあ。限られた、小さな空間しか移動しない。それでも山に来たら大変だろうけど。

 ハイジはときどきペーターの扱いが雑になるし、何かを決める時におじいさんの力を当てにしているような。今回だって、おじいさんがハイジの望むことを叶えてやりたいと思っているだろうと分かって、言ってるよな、と。しっかりしているように見えるけど、愛されているものの傲慢さ・わがままさをハイジからは感じる。子どもの健全さかもしれないが。

 

42話 クララとの再会

 『赤毛のアン』の時も思ったけど、少女二人の友情や再会がかなりロマンチックなんだよな。クララもハイジも瞳をうるうるさせて見つめ合っていた。おじいさんとロッテンマイヤーさんの関わり絶対面白い。楽しみにしてた。ロッテンマイヤーさんがペーターにおどろいた時の表情が『パンダコパンダ』でミミ子の家にやってきたサーカスの人と一緒だった。そういえば、ロッテンマイヤーさんは動物苦手だったな、これも楽しみだな。

 

43話 クララの願い

 ロッテンマイヤーさんの反応がいちいち大きくて笑ってしまう。が、もう少し奥行きのある人物にできなかったものかな。頑固で、感情的、としか形容されない感じがある。ロッテンマイヤーさんのような心配って、心配される側にとってはかなり負担だったり、鎖のように感じるんだよなあ。大事にしていると言いつつ、みくびっている感じ。

 ハイジが山の牧場に行かないと分かって怒っていたのに、クララとハイジの分の花を摘んで帰ってくるペーターかわいい。おじいさん、お疲れ様です、としか言えない。クララ抱えて梯子上ってた。

 

44話 小さな計画

 クララが山に来てから、面白い部分を担っているのは絶対ロッテンマイヤーさん。おばさんって呼ばれて、ヤギに囲まれるだろうな~と思っていたら本当にそうなった。今回はロッテンマイヤーさんの足の物語だったな。普段履いているヒールの靴からペーターのお母さんの靴へ、最後は裸足になって、タイツはぼろぼろに。ロッテンマイヤーさんってよく刺繍しているし、よく居眠りしている。「ペーターさん」か良いな。

 

45話 山の子たち

 「迷惑」をかけているって考えるのは嫌だな。たくさん助けてもらっているのは事実としても。クララを助けることはフランクフルトの大人たちにとって仕事なのに対して、ペーター、ハイジ、おじいさんがクララを助けることは「善意」だものなあ。でも「迷惑」とは捉えてほしくないな。

 

46話 クララのしあわせ

 ハイジたちの生きる時代、女性がズボンを履くことはどんな感じだったのだろう。クララもロッテンマイヤーさんも忌避していたから気になる。ペーター、やさしいし、学校の勉強はあまりできないが、クララを運ぶための椅子を頑丈に作ることができるんだなあ。ロッテンマイヤーさんの使命感がすごい。彼女がただ嫌な人物として描かれていないところが良い。今回はクララが語る少女だった。

 虹が出るシーン、最初にロングショットで虹の断片を横移動で映して、その後に超ロングショットで虹全体を映していて、こうやって見せるのか、と思った。最初に虹全体を映す超ロングショット来るかなと思った。

 

『アルプスの少女ハイジ』感想 36-40話

36話 そして牧場へ

 ハイジは、赤と黄とピンクの洋服を着て「ハイジ」になるらしい。ペーターにフランクフルトで何してたの?と聞かれて、「何にもしてなかった」と最初に答えてた。その後、夢ばかりみてた、勉強と言ってたけど。ハイジにとってフランクフルトでの暮らしは、何もしてないことになるのか。小鳥の巣を見つけた時にハイジに見せたいと思ったと素直に話すペーター、かわいい~

 山で昼寝の時に見る夢はクララの夢なんだね。雲の上で寝ているところに、クララがやってきて、手を繋いで雲の上を走っていた。『かぐや姫の物語』でかぐやと捨丸は手を繋いで飛翔するのだけど、『アルプスの少女ハイジ』を見ていると、このシーンを恋愛の文脈だけで捉えるのは違うのでは、という思いが強くなるなあ。

 

37話 山羊のあかちゃん

 おじいさんはハイジにとことん弱い。これから毎日下りて、冬の間住む家を直し、元々の仕事もやり、となるとものすごく大変なのでは。いったいいくつなのだろう。ペーターは仕事だから、牧場に行かない選択肢はないのに対して、ハイジは気になることがあれば山に行かない選択ができる。この非対称性はペーターにとって酷だろうなあ。一人だとつまらないのもあるだろうけど。

 クララのお父さん、また家にいないのか。約束はどうした。仕事はどうにもならないのかなあ。

 

38話 新しい家

 冬の間住む家を直すおじいさんの代わりに、ハイジが家事の全般を担っていたらしい。ハイジにはひやかしやいじわるは通用しないのが良い。今回はペーターがたくさん走った回だった。

 

39話 がんばれペーター 

 ペーターはおじいさんの弟子になるのかな。そりすべり大会に女の子は出場できないなんて!!ハイジのほっぺの赤い丸が点滅してた。ハイジが「試運転」って言うとなんか変。ハイジはペーターをあまり信頼していないが(勉強があまりできないからかな?)、おじいさんの方はペーターが木を削っている姿と音で才能がありそうだと判断している。何回目って感じだけど、ペーターかわいいな~

 

40話 アルムへ行きたい

 クララのお父さん、強引だし、無理かもしれない約束するし、なんかまあまあひどいな。やっぱりハイジは人々とコミュニケーションを取るのが上手い子どもなんだな。山の家に帰る時の様子を見ていると。(私だって行けるものならアルムへ行きたい。おじいさんとヨーゼフと暮らせるなら、こんな家出ていきたい。今すぐ暮らせるなら、どこへだって行きたいよ。)

『アルプスの少女ハイジ』感想 31-35話

 

31話

 クララのおばあさんが去ってしまう回。クララとハイジのために、おばあさんは花嫁さんごっこを企画するのだが、花嫁になるのはクララだけで、ハイジはクララの傍にいる人だった。花婿役の人が用意されるわけでもない。ごっこ遊びといえど、一人で花嫁になれ、それを人々にお祝いしてもらえている姿はなかなかに良いものがあったと思う。クララは「私は花嫁になれない」とこぼすのだけど、歩けないと花嫁になれないの?クララの家って金持ちだから、花嫁になることはできそうだが。

 ロッテンマイヤーさんが言う「立派な婦人」ってなんだろ。

 

32話

 久々の山の映像だ。ハイジがいなくなったら「死んじゃう」と言うクララに、次回予告で「死ぬほど苦しんでいる」と言われているハイジ。泥沼じゃん。どちらも可哀想だなあ。絵の前でヤギやヨーゼフの真似をして遊ぶハイジを見ると、具体的な事物や真似ることが山を想起することにも、気分を上げることにも重要なのかなと思う。

 

33話

 夜の山の様子が物悲しくて、ハイジが可哀想で可哀想で仕方なかった。「どうして足がこんなに冷たいの?」。ハイジは夢遊病になって、幽霊になって、その責任はロッテンマイヤーさんにあるんだなあ。家にいない父親はロッテンマイヤーさんを責める資格はないと思うけどなあ。やっと山に帰れるんだ!

 

34話

 あー良かった、良かった。山に帰ることができて。おじいさんもペーターのおばあさんも嬉しいだろうなあ。おじいさんに抱きしめられて泣いてるハイジを見ると、どれだけ山に帰りたかったか分かるよ。山で駆け回っているハイジがやっぱり好きだ。

 

35話

 32話から毎回泣いている気がする。子どもが嬉しくてなくってよっぽどのことだよなあ。おじいさんに抱きしめられ、ペーターと手をつないで跳ね、ヨーゼフについて回られ、ヤギたちになめられるハイジを見ることができて、本当に良かった。喜ぶペーターがかわいいし、ハイジに干し草をかぶせるおじいさんもかわいい。ハイジのことがどんなに大切で、帰って来てほしいと願っていても、ハイジのベッドを片付けるのがおじいさんなんだよなあ。

 フランクフルトの食べ物もハイジには合わなかったのか。そういえば、料理やデザートにおいしいと感嘆している様子なかったかもしれない。ハイジはおいしいと喜んでいる様子がすぐ浮かぶキャラクターな気がするのに。

アニメ『平家物語』感想 11話(最終話)

 徳子が出家して生き続ける未来は、びわが助けること込みの未来だったのかな。びわは何もできないと思っていたが、徳子の命を救う事はできた。子が死んでも、生き続ける母・徳子を描き、そして彼女もまた語り継ぐ主体となるのか。

 いやー面白かった。私に金と力があれば52話、せめて26話で作っただろうな。面白かったのだが、もっと描いてほしいことがあった。あくまで元の平家物語を下敷きにしているのだろうから、難しいところはあるにせよ。『アルプスの少女ハイジ』を並行して見ているので、多くの回を重ねてみてみたいと思うのかもしれない。びわと徳子、びわと重盛、びわと維盛、びわと資盛etc.の日常の様子やどんな風に関わり合うのかを知りたかったし、びわが歩き走りどんな空間に生きているのか知りたかった。『平家物語』の登場人物たちがみな好きだなあと思っているからかもしれない。表面的だと感じていた徳子さえも。

 最終回にして何を書けばよいのか分からなくなってしまった。「びわ」の存在は、これから日本アニメをジェンダー論から語る上で外せない存在になるだろうことは分かる。

 びわはこの後どう生きたのだろう。どこで、いつまで、どんな容貌で生き、何を食べ、誰と知り合い、語ることに対してどんなことを思い、語る内容に対する思いの変化を経験したのだろうか。「見るべきものはすべて見た」と、壇ノ浦の戦い後はびわは見えなくなったのかな。

 最初の数話では「女の子」だと二度ほど指摘されていたが、男の格好をして、頭はおかっぱで、成長せず、よく食べ、びわを弾き、先が見え、死んだ者を見ることができるようになり、平家一門の物語を語り、、、

 平家、特に重盛一家とは共に過ごしたわけだが、それでも外側の人間だった。権力争いにも絡むことはなかった。源氏側で噂になることもなかった。つまり、徳子を救う事を除いては、ずっと外部にいた存在なんだよなあ。外部にいたが、でも内部で生活した。びわは平家に守られた存在なのか?周縁にいた人物が歴史を語り継ぐことをどう捉えたら良いのか私には分からない。

 分からないが、祈ることも語り継ぐことも大事なのだということは分かる。祈りも語り継ぐことも他者があってこそのものだもんなあ。蝶、花、目、涙、鳥、死、生、足、祈り、語り。落ち、舞う。批評を読みたい…………分析してーーー

アニメ『平家物語』感想 10話

 ついに壇ノ浦までやってきたか。維盛のさいご、良かった。残された妻子の苦しみを描いてほしい気持ちはあったが。資盛が法皇に救いを乞うとは。そして好きな女性(名前を忘れてしまった)との関係はやはり良きものであったとお見受け。

 

★★★★★★★

 舞い、落ちることが繰り返される回だった。白拍子の舞い、花びらが舞い、大きな布が舞い、花びらが落ち、涙が落ちる。

 維盛の落ちる涙は前の時もそうだったが、戦いの中で流れる血と関連していると思われる。維盛が許されて良かった。臆病なのによく水の中に飛び込めたなあ。維盛とびわの再会と別れも、資盛とびわの再会も美しいショットの連続だった。ドラマチックすぎる気もするが、あういう演出は好きだ。

 ついに最終回か。

アニメ『平家物語』感想 9話

 この『平家物語』で絶対に見たくない類のショットがこの回に二つあった。三人組の白拍子の足(太もも)のショット。この作品の最初の数話で、白拍子が男たちの都合によって左右され、ただ見世物となることを苦痛として描いていたはずなのに、若い白拍子の一人の太ももを性的な眼差しで描くとは………

 平家を落ちた存在として描く際の汚れた足、生きる者としての足、母と子の寄り添いを表す足、戦うものたちの足、そういう表現に足を使うのは分かるし、好きだ。だけど、性的に太ももを描くのは違うだろ。足がフェティッシュの対象といえど、客体化するようなフェティッシュはこの作品自体を損なっている。描いてきた女性の苦しみはどこへ行った。徳子にしても強さが見えるのは良いが、「母強し」的な強さは結局ステレオタイプなのではないか。

 

★★★★★★★

 白い髪の人がいる空間が、初めて三次元になったかな?それまで、背景はずっと黒だった気がする。びわが、語り継ぐことを決意したことに連動しているのだろうな。だから、暗闇の中に光が差したのだろうな。語ることと祈ることか。これらを無力として扱わない、僅かでも力を持たせることができたら良い気がするなあ。

 清経と敦盛の関係もまあまあ良かった。この二人が死ぬときは、花が落ちるのではなく、鳥が高く飛んで行った。

 女性で涙を流したのはびわの母が初めてかな?瞳に涙をためていた人物はそれまでにもいたけど、流すのは初めてな気が。祇王って泣いてたっけ?もう一回見た時に確認しよ。